委員長「KT君」のこと(前)

 このお話は、ミュージアム邂逅記「ミュージアムとの出会い その2」に関する余話です。

 

 高校生の頃のユネスコ活動の事を思い出すと、必ず思い浮かんでくるのが 委員長「KT君」のことです。

あの頃、そうです、私がユネスコクラブの部長をしていた頃の話です。

大阪府下にある高等学校のユネスコクラブが集まり、「大阪ユネスコ高校連盟」が結成されていました。加盟校は、公立、私立あわせて17校でした。

連盟を率いるのは、加盟校の高校生7名による委員会です。

 

 委員会は、委員長1名、副委員長2名、書記2名、会計2名の計7名で構成されています。立候補と演説会、選挙によって委員が決められ、1年を前期・後期に分けて運営されていました。

私は、高校2年生の後期と、3年生の前期の2期・1年間にわたり副委員長を務めていました。その時、共に委員として連盟を率いて活動していたのが委員長の「KT君」でした。

 

 私が副委員長をしていた1年間、同学年の委員長「TK君」と会計の「TT君」、そして書記をしていた1年下の女子高生「AKさん」の4名。

毎週土曜日、午前中の授業が終わったその足で、制服姿のままで心斎橋筋を歩いて当時心斎橋にあった「大阪ユネスコ協会」の事務局に集まり、ユネスコ活動の予定を組んだり何程もないような話をしていたものです。

今にして思えば、よく毎週欠かさず集まったものです。

そして、良く話題が尽きなかったものです。

青春していたのでしょうね。

 

そんな委員長「KT君」との悲しい思い出です。

 

 青春まっただ中、高校生時代の1年間、他校の生徒ではありましたが、会計の「TT君」とともにお互いがお互いを親友として認め合っていました。

委員長「KT君」は弁護士を目指して東京の私立大学に進み、私は学芸員を、会計の「TT君」は、建設会社の設備部に就職しました。

会計の「TT君」との思い出は、調味料のタバスコをめぐるエピソードがありますが、そちらは次の機会として、今回は委員長「TK君」との事です。

 

 委員長「KT君」は、大学を出てしばらくして結婚し、東京の特許事務所に就職しながら法律の勉強をしていました。

新居は石神井公園近くの一軒家の借家です。一度、東京の交通博物館へ出張した際に立ち寄った事がありました。

このようにして東京で頑張っていた彼ですが、思い通りに弁護士資格は取れず、書生のような待遇であった為、収入も思い通りに増えなかった事もあり、数年して大阪に帰って建設会社の営業職に転職して法律の勉強も続けていました。

 

 こうした中、30歳半ばになった頃、突然彼が私の元にやってきて「少し用立ててほしい」と言ってきたのです。

仕事上のトラブルに関わっているお金のようです。

彼とは、生涯にわたって親友であり続けるだろうと思っていましたので、その時は何とか対応させてもらいました。

 

 こんな事があったあと、今度は彼のお兄さんから電話があり、何事かあったのか緊迫感の漂う口調で『「KT君」が私の所に立ち寄っていないか、もし立ち寄っていたら、身柄を確保してほしい』と話されます。

先のお金を用立てた事、そして緊迫したこの状況・・・。

 

 彼の身に何かあった事は察しがつきましたので、「TT君」と「AKさん」に連絡を取り、状況を話してお互いが思いつく立ち寄り先をあたってみる事にしました。

そこで気づいたのが委員長「KT君」が奥さんと出会ったのが御在所岳だという事を聞いていましたので、手当たり次第御在所岳付近の宿泊施設に電話をしましたが、それらしい情報は得られませんでした。

 

 それから数日してお兄さんから彼が見つかったという連絡を受け、その様子を聞いてみますと、案じていた通り、仕事上のトラブルで自ら命を断つべく、縁ある所を最後のお別れの挨拶に回っていたようです。

やはり、御在所岳で自らの命を断つつもりで立ち寄った事も分かりました。

私の所にも近所まで来てくれたようですが、トラブルから逃れる際に交通事故を起こし、手帳の入った鞄を車中に置き去りにして来た為、私には連絡できなかったようです。

お兄さんの所にお別れの電話があった時、必死で引き止めて大事には至らなかったという訳です。

 

さっそく「TT君」と「AKさん」に概要を連絡し、とりあえず安堵しました。

が、この話はこれで終わりませんでした。

 

このつづきは次回『委員長「KT君」のこと(後)』 で・・・。