テーマはミュージアム、人と出来事に、、、

実行委員会メンバーと私(左から3人目)  
実行委員会メンバーと私(左から3人目)  

 ホームページの記事書き込みに追われ、 最初のブログ書き込みから随分時間が経ってしまい、 書き込みがおろそかになってしまいました。

 

 さて、ブログ2回目です。

まずは当然の事として、ミュージアムに関する事。

 ただ、色々なミュージアムを紹介するといった「探訪記」ではなく、学芸員として経験し、ミュージアム活動を通して得た私なりのミュージアム観や、これからのミュージアムの方向性、それから、広く文化や教育、あるいは社会の動きなどについての感想などを書こう。そして、これまでに出会った人々や出来事も書いておきたい・・・。

 

 特に、私の人生観や生き方、考え方に良い意味で影響を与えてくれた人々との出会いや出来事などを、ある一人の画家さん(松井守男画伯)との出会いを通して書いていく事にしようと考えています。

 ただ、こちらは、別の項目を立てて気付きや学びといった事を柱として綴っていこうと考えています。(ブログの仮題・光の画家ー松井守男 沈黙の絵筆)

 

それでは、私とミュージアムとの関わり初めから・・・。

 

 ミュージアムへの就職は、学生時代のユネスコ活動をキッカケとして、某理工系博物館に在籍約 20 年。退職してからは独自で活動を続け、今日に至っています。

 

 その間、我が国も高度経済成長の時代、東京オリンピックや大阪万博の開催、高度映像情報化社会の到来、そして、リーマンショックと、大きく変化してきました。今にして思えば、そうした時代の変遷の中での経験や思索の足跡が、職業生活やプライベート上での自己実現の糧となっていると感じています。

 

 これらの事を、私なりの表現で綴っていく事にしようと思っていますが、その一端、我が人生の小さな歩みをお読み頂く皆様に、幾らかでも発見や気付き、仕事へのヒントにでもなれば、ホームページや本ブログ開設の意味も深まり、私にとっては望外の幸せでもあります。

 

 次回以降、私とミュージアムとの関わりを「ミュージアムとの出会い」として、各回テーマを設けて綴ってゆこうと思います。

 

写真説明/

ユネスコクラブのあった大阪府下の高等学校17校によって結成されていた「大阪ユネスコ高校連盟」の副委員長をしていた頃の写真。実行委員長を兼務していたので、各加盟校の部長が集まった実行委員会終了後の記念撮影。

場所は、四天王寺女子学園高等学校の校門付近。

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出会い その1 ~社会科見学の楽しさを通して~

展覧会の様子(大阪万博をテーマに)  
展覧会の様子(大阪万博をテーマに)  

  ブログ、3回目。

 何故、ミュージアムと関わる事になったのか。

ミュージアムに興味を持ったのはいつ頃からなのか。

今日は、そんな事を書いてみましょう。

 

 ブログをお読みいただく皆さんもご経験がおありだとは思いますが、私が、小学校の3・4年生の頃、社会科見学で工場見学というのがありました。

・・・ある飲料メーカーの工場での出来事・・・。

 

 工場の構内に入り、目の前をベルトコンベアが走り、次々と製品となって出来上がっていくのを飽きずに眺めていたものでした。試食や試飲などもあり、同級生達との会話を楽しみながら見学した事を覚えています。

 

 学校での座学とは違い、目の前にある機械や装置など、自動化された工場の内部を見ながら、「どうなっているのだろうか」とか「うまくできているなあ」など、今にして思えば日常を離れた「学び」であり、私にとっては学習する事の楽しさを実感した最初の経験だった様に思います。

 その後、中学、高校と進み、夢はいつしか漠然と研究者になりたいと思う様になっていました。

 

 時代も戦後の混乱期を脱し、一般家庭にも電話やテレビなどが普及する様になっていた頃で、我が家にも、親が無理をしながら買った電話やテレビがやってきました。

 

 毎週恒例になった力道山のプロレス中継を、近所の人達と共に楽しむと共に、町内でも早くから敷かれた電話に至っては、近所の人達も使いに来たりもしていた頃でした。

 

 いわゆる、家庭電化のハシリの様な時代であり、 数年後には東京オリンピックの開催、東海道新幹線の開業と、そろそろ我が国経済の高度成長が訪れようとしていた時期です。正に、社会全体が大きく動き、変貌しようとしていた時代でした。

 

 そんな頃に工業高校の電気科に入学した私ですが、将来は電子工学の研究者になりたいという夢を持ちながら、ひょんな事からユネスコクラブに入部する事になり、学業の分野とは違った文化活動を経験する事になります。

 

写真説明/

高校2年生の秋の文化祭での一コマ。ユネスコクラブでの1年間の活動を発表した教室内の展覧会の様子。大阪万博についての調査研究の成果を発表した。

この年の全国高校ユネスコクラブの活動コンクールで、藤山愛一郎賞の努力賞をいただきました。

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出会い その2 ~ユネスコクラブの活動~

当時のテキストとバッジ(右下)    
当時のテキストとバッジ(右下)    

~ユネスコクラブの活動~

 

 私と二歳違いの兄と同じ高校に入学後、兄の友人がユネスコクラブの部長をしていた関係から「入部してくれないか」という誘いを受け、ひょんな事から入部することになりました。

 

 ユネスコクラブというのは、国連のユネスコ(UNESCO/国際連合教育科学文化機関)に対して、民間でユネスコ活動をしている高校生によって組織された文化クラブの事です。

 

 具体的には、教育・科学・文化の分野での諸国民間の協力を促進し、世界の平和に貢献しようとするユネスコの理念を、学生のクラブ活動として学び、且つ、その理念を体現してゆこうとする全国的な学生の活動組織の一つになります。

 

 高校時代の約3年間、学業もさることながら、クラブの部長や加盟17校で組織する大阪ユネスコ高校連盟の副委員長としての活動も含め、学業というよりは、むしろユネスコ活動に青春の一時期を賭け、全力で駆け抜けた感があります。

 

 このユネスコ憲章の前文には、

「戦争は、人の心の中に生まれるものであるから、心の中に、平和の砦を築かなければならない。」

(that since wars begin in the minds of men, it is in the minds of men that the defenses of peace must be constructed;)

という文章がありますが、その頃の若さ故なのか前文の考え方にいたく感銘を受け、画像の古ぼけた冊子と共に、今も机の引き出しに文章を写した手帳が眠っています。

 

 そんなユネスコクラブの活動内容というのは、各校それぞれの活動形態がありましたが、我が校では一年間を通してテーマを決め、そのテーマについての調査・研究を進め、秋の文化祭で発表するというものでした。

 

 クラブでの3年間は、高校生の意識調査を行ったり、当時、開催が決まりはしたものの、あまり世間には知られる事もなく、盛り上がる途上の日本万国博覧会(大阪万博)をテーマにして、その歴史を調べたり、計画中の会場の模型などもクラブ員で製作して文化祭で発表するという活動を行ないました。

 

 次に文化祭が済むと、活動した1年間の成果をまとめ、全国組織であるユネスコ高校連盟の研究論文コンクールに応募し、2年続けて「優秀賞」と「努力賞」とを受賞した事で、文化活動の楽しさや達成感などを味わいました。

 

 その後、ユネスコと博物館との関係にも触れる事となり、ユネスコクラブでの活動によって、電子工学の研究者という夢とは別方向もあり得る事を発見する事となります。

 

写真説明/

当時、ユネスコクラブ自体が珍しかった為、ユネスコについての学習資料が無く、文部省のユネスコ国内委員会やユネスコ協会連盟などが発行していたテキストなどによって学んでいた。バッジは、国連のユネスコのマークであるパルテノン神殿をモチーフにデザインされたものです。

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出会い その3 ~学芸員という職業~

蒸気機関車 D512号機の運転台   
蒸気機関車 D512号機の運転台   

~学芸員という職業~

 

 またまたブログの記入が滞ってしまいました。

仕事以外の活動や特設コーナーへの記入等ですっかりご無沙汰でした。

 

 前回は、クラブ活動の事を書きましたが、今回は、博物館を就職先に選んだ理由を書こうと思います。

 

 当時、日本ユネスコ協会連盟が発行していたユネスコ新聞に「博物館技術者のためのパイロットセンターの建設」という記事が掲載された事がありました。

 

 ユネスコ活動に携わりたいという希望を持っていた私としては、博物館の仕事をする事が、遠からずユネスコ活動に繋がるかもしれないと言う自分なりの未来図が、この時に漠然と出来上がったようです。

 

 この時の想いがキッカケで、後年、博物館を就職先を決める事になりますが、私自身が目指していた電子工学の研究者と言う夢が、ユネスコ活動を通して、いつしか文化活動への興味の方に傾斜していたのです。

 

 卒業間際まで私のクラブ活動は続いていましたが、学校から卒業後の就職先にと勧められたのは、某大手電機機器メーカーの設計部員や船舶無線機器製造会社の研究員と言う、どちらも「研究職」という職業でした。

 

 その都度、「1日考えさせて下さい」という返事をしていましたが、結局、3番目に紹介された博物館への就職を決めましたが、その動機となったのは、前にも述べました様に、文化活動を通したユネスコ活動への無意識な傾倒であり、博物館への就職という形として意識化されたものだろうと思っています。

 

 後年、学芸員になってから、ユネスコの標識がパルテノン神殿を模したものであり、また、神殿というのは、ギリシャ語でムゼイオン(museion)と書き表し、博物館や美術館と言ったミュージアム(museum)の語源である事を知リ、偶然の一致に驚いたものでした。(因に、「ミュージック(音楽)」という言葉も同じムゼイオンの言葉に由来しています。)

 

 ギリシャ時代の神殿においては、色々な神が集い、ミューズの神が音楽を奏でたり、様々な決まり事を話し合ったり、裁判や教育的な事なども行われていた場所だったと言われています。

 

 後々、別項目でご紹介しようと考えていますが、私が情報処理学会で発表する事になった最初の論文「ミュージアムからムゼイオンへの回帰~博物館におけるメディア活用の視点~」というタイトルも、このユネスコの神殿を隠喩として使い、神々の集うところを、情報が集積する所として示しつつ、情報会社会を迎えるにあたり、学芸員の意識の転換や向上を図らなければ、情報化社会の中でミュージアム活動が埋没しかねない、という問題意識を根底にして論じたものです。

 

 このような経過をたどりつつ、学生の頃のユネスコ活動が、そのままミュージアム活動に繋がり、博物館学芸員を職業として、自分なりの社会参加する方法論に行き着いたようです。

 

写真説明/

デゴイチの愛称で呼ばれていた貨物用のD51形蒸気機関車2号機の運転台横を撮ったもの。

1114両という同型機では一番数多く製造された型式の蒸気機関車で、1号機は、現在も京都の梅小路蒸気機関車館(現・京都鉄道博物館)に保存展示されています。

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出会い その4 ~学芸員の喜び~

0系新幹線1号車の展示工事現場(左端が著者)   
0系新幹線1号車の展示工事現場(左端が著者)   

~学芸員の喜び~

 

 思えば就職後約20年、家庭の事情で退職するまでの学芸員としての活動は、私に色々な出会いを演出してくれました。

 

 先輩や同僚、後輩達との熱情を込めた議論の応酬、ミュージアム活動への思いや博物館事業へのこだわり、科学館の将来展望にまつわる思いの数々や、館内のメンテナンスに関わってもらっている色々な業者の方々との共同作業や、来館者の方々とのワークショップなどでの様々な交流・・・。

 

 そんな中でも印象に残っている人も多数居られますが、今も強烈に残っている来館者の言葉があります。

 

 就職して十年程過ぎた頃、いつもの様に閉館間近の館内巡回を経て、玄関ホールに出ていた時の事です。

玄関ドアを通り過ぎようとしていた子ども連れのお母さんが、振り返りながら私に向かって不意に

 

「有り難うございました!」

子ども連れのお母さんが発した一言・・・

 

私は、ハッ! としました。 

何故、来館者の方がお礼の言葉を言われたのか・・・。

 

 施設を運営している私達からすれば、お客様である立場の方から「ありがとう」と言う感謝の言葉がなぜ発せられるのか・・・。

  一般の社会であれば、お金をいただく私達の方こそ、「有り難うございました」という感謝の言葉を言わなければならないのではないのか。

 

一瞬、私の頭の中を巡らした自問自答・・・。

 

そうか!

あの言葉は、来館者の方の心から発せられた素直な感謝や感動、まごころからの言葉なのだ。

私は、何とすばらしい仕事、ありがたい職業に就く事ができたのか・・・。

 

 学芸員を始め、類似の施設、同じ様な文化施設で働く者達は、入館料を払って来て頂いた方々から感謝の言葉をいただいているという、その有り難さを噛みしめないといけないのではないか。

 

 多くの学芸員は、この現実に感謝する必要があるし、だからこそ、より一層がんばる事も出来る。

 

 私は、この日の出来事によって、これが「学芸員としての喜び」というものであると気付かされました。

そんな思いを持った学芸員時代の一コマでした。

 

写真説明/

0系新幹線の1号車4両を保存展示する為に、展示場横に空き地になっていた大阪港への貨物線用地を、展示室に転用する為の工事現場の写真。この後、線路を敷き、実物車両を並べてから建屋を建て、最後に壁面を取り外して館内と一体化させた。車両の搬入は、大阪南港に海上輸送された車両を、深夜、時速15キロで陸送した。

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出会い その5 ~学芸員の学び~

展示中の回転変流機(部分)   
展示中の回転変流機(部分)   

~学芸員の学び~

 

 博物館の学芸員も、他のビジネスマンの方々と同様に、専門分野の研究や業務知識を深めたり、 ヒューマン・ネットワークを広げる為の様々な会にも参加します。

今日は、そんな経験をとどめておきましょう。

 

 教育普及業務を担当していた頃の話です。

 

 私の在籍していた施設の展示業務では、年間を通した展示計画の作成と共に、学芸員自らが展示デザインや設計等も行なっていました。

 

 その頃、自らの業務能力向上のために、当時、流行り出していたカルチャーセンターのインテリアデザインコースに参加していた事があり、その時にお知り合いになった大手事務家具メーカーの室長の方(仮にA氏とします)からのお誘いがあり、ある経営コンサルタント会社の勉強会に参加する機会を得ました。 

 

 関西の大手・中堅企業の社長さんや部長さんクラスが集まる勉強会です。 

勿論私は、平の学芸員、会費は、年間十数万円、当時の私の月収の数ヶ月分に相当する額です。

 

 事務局の方の計らいで、平の学芸員という事はビジネス社会で言えば平社員と同じだろうと言う事で、昼食代を含めて1回5千円の参加費で参加させて頂く事になりました。

 

 ビジネスと言う文化活動とは全く違った環境、それも、会社の経営に携わる人達はどの様な価値観を持ち、どのように物事を理解し、どう行動するのか・・・。

  そんな点に興味があり、あえて、別世界の人達と交流できる機会を持とうと考えたのです。

 

 昼食のあと、フリートークの型式で話し合い、その話題の中からコンサルタントの方がその日のテーマを決め、そして、経営ノウハウに繋がる話にまとめ上げると言う、誠に実践的な勉強会です。

 

ある日の勉強会での事・・・。

 

 事務家具メーカーの開発室長であるA氏が、台所用システム家具の開発話を、図面や調査結果の統計資料なども配布しながら説明されましたが、その中で私の感性に響いた言葉が「コンセプト」と言う言葉でした。

 

 概念とか、考え方、あるいは、思想と言った意味ですが、このシステム家具を開発する時に、まず、家具の「コンセプト」を会議で決定し、それに沿って設計・開発した経緯を発表されました。

 

 勿論、その日は、台所用システム家具の「コンセプト」について、コンサルタントの先生と参加している経営者や部長クラスの方々とが、様々な角度から議論をしたり、自社の事例などを紹介されながら、その後も話し合いは続きました。

 

 それまでの私は、展示や催し物の企画を進める時には、施設のテーマに関係したテーマを決め、そのテーマのサブテーマを分析し、それに沿って具体的な内容を考えると言う、所謂、カテゴリーを重視しながら企画するという方法でしたので、「コンセプト」という言葉を新鮮な響きを持って聞いていたのです。

 

 この日の勉強会の後に開催された研究会では、引き続いてA氏が発表されましたが、当時の時代背景や人々の嗜好など、色々な要素を考え合わせながらコンセプトが考えられ、それに沿ってシ家庭用ステム家具のデザインが生まれた様子を発表されました。。

 

 「よし!私も何かコンセプトを作って、催し物を企画してみよう」 と言う気持ちが沸き立ちました。

 

この続きは、次回に・・・。

 

写真説明/

山陽本線の直流電化区間に送電する為、発電所から送られてきた交流の電気を直流に変換する為の「回転変流機」の一部。芦屋の変電所に設置されていたものを、保存する為に収集してきたもの。

後に、準鉄道記念物に指定されており、言わば、我が国の近代化を推進した貴重な産業遺産でもあります。 

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