新たなミュージアム像の探求 その3

C62形蒸気機関車(26号機)   
C62形蒸気機関車(26号機)   

~ミュージアムと情報化社会~

 

「アクティブ・ミュージアム」

 この催し物を開催した夏の体験、人々との出会いは、私に新たな好奇心を芽生えさせました。

 

ミュージアムとコンピュータとの関係です。

 

 ミュージアムは、原則的にはリアリティーの世界であり、コンピュータはヴァーチャルな世界です。新たなメディアであるコンピュータが、確実にミュージアムの世界に入ってくるという事は、容易に想像出来る事でした。

 

 時代がコンピュータを求め、コンピュータが社会を変えつつありました。

当時、マーシャル・マクルーハン先生は、「Media is message」と言いました。

「Museum is a Media」という状況も、ミュージアムの世界に訪れようとしていました。

 

 この「アクティブ・ミュージアム」を企画する数年前の事・・・。

 

 1970 年、大阪の北部・千里丘陵を開拓して開催された日本万国博覧会(大阪万博)は、180日間の会期中に6,400 万人強もの入場者を集め、その年の秋に盛況のうちに幕を閉じました。

 

 この大阪万博をキッカケとして、そのすぐ後に誕生したのが国立民族学博物館(民博)です。世界有数の博物館であり、我が国が誇る博物館の一つです。

 

 この民博の初代館長である梅棹館長は、同館の活動全体にコンピュータの活用(ホロテ ーク構想)を図り、その状況を「博物館」ならぬ「博情報館」と称されていました。

その頃ミュージアム活動をしていた私にとっても、大変納得のいく表現だと思ったものです。

 

 平成27年4月にこのブログを書いているこの頃になり、博物館の活動についての研究にもようやく「情報」という視点から語られる様になっ てきましたが、私は、この「アクティブ・ミュージアム」を開催した頃から、コンピュータやそれに関わる人々との出会いによって、ミュージアムという存在自体を「情報」という視点から捉え直す必要があるのではないかと考えていました。

 

 丁度その頃、博物館活動について我が国においても、学問的に研究しようという動きが始まり、民博開館後には「日本展示学会」が発足したのを始め、続けて「日本博物館学会」の設立も見る事となりました。

 

 それまで、博物館関係の団体と言えば日本博物館協会があるのみで、どちらかと言えば博物館同士の親睦や連絡、交流という意味合いが強く、学問的な視点から研究されるという方向性はあまり感じられなかったと感じていました。

 

 私は、当時唯一の博物館団体であった日本博物館協会に、入社一年目から個人会員として入会しましたが、現場を預かる一学芸員として、自らの職業に対する見識を深める手段のなさに、何かもの足りなさを感じていた頃でした。

 

 この日本万国博覧会が閉幕した後、万博の開催で培われた経験や人材を活用するということで、新たに博物館づくりの専門業者が誕生した様に、博物館について学問的に研究しようとする学会の誕生は、我が国の博物館黎明第二期ともよべる状況が生まれてきました。

 

 ただ、私はこれらの学会には属する事は無く、退職後に個人事務所を開いて博物館関連の仕事もする事になってから、その後に誕生した日本ミュージアム・マネージメント学会に入会する事になります。

 

 ミュージアムと情報化社会との関係に対する研究は、「アクティブ・ミュージアム」の企画とその時の人々との出会いから生まれたテーマであり、他のページでも語っている様に、今もその視線は変わる事がありません。

 

 今にして思えば、本当の意味で職業意識が芽生え始めたのは、万博以後の学会の設立や博物館の新しい運営手法を取り出した「アクティブ・ミュージアム」の企画・開催、それに関した様々な人々との出会いが多かったこの頃ではなかったかと思っています。

 

写真説明/

旅客用の蒸気機関車で、東海道本線の特急列車「つばめ」を牽引していた機関車として親しまれていました。蒸気機関から生まれた動力をスピードを出す為に大きな動輪に伝えて走っていました。